東京裁判という茶番劇
原爆投下というのはナチスのユダヤ人虐殺と並ぶ戦争犯罪だと私は思っていますが、そうした犯罪は個々の戦場でも起きていたことを忘れてはなりません。映画「硫黄島からの手紙」では、投降した日本兵を射殺する場面があります。
どうして残虐行為を行ったアメリカが、東京裁判における「人道に対する罪」で、日本を裁くことができるのか。
BEST TIMES 12/29(木) 6:00配信東京裁判開廷70年。「米国人弁護士が『断罪』東京裁判という茶番」を上梓、来日から40年日本を愛し、知り尽くしたケント・ギルバート氏が米国人の視点からみた東京裁判について論じていく。
真珠湾攻撃によって、日米の戦端が開かれると、大統領行政命令によって、十二万人以上にのぼる、アメリカ国籍を持つ日系アメリカ人が、敵性外国人として、財産をすべて没収されたうえで、身の回り品だけ持つことを許されて、全米十か所の僻地に設けられた強制収容所に送り込まれた。
これは、法の下の平等を定めた、アメリカ合衆国憲法修正第十四条に対する、重大な違反だった。同じく、敵国のドイツ系、イタリア系などのアメリカ人は、まったく収容されることがなかったのだ。
収容所は有刺鉄線によって囲まれていた。
馬小屋や、急拵えの掘立小屋が並び、衛生も、環境も、劣悪だった。サーチライトを備えた監視塔の上から、常時、銃を携えた兵士が監視していた。
歴史学者のマサチューセッツ工科大学(MIT)のジョン・ダワー教授は、著書『容赦なき戦争・太平洋戦争における人種差別』(平凡社)のなかで、日系アメリカ人が収容された施設について、こう描写している。
「日系アメリカ人は西海岸の自宅や、コミュニティから追い立てられて、牛のように駆り集められただけではなく、強制収容所の最終的な宿舎に移住させられるまで、何週間も、何カ月も、動物用の施設で暮らすよう命じられたのである。
ワシントン州では、二千人の日系アメリカ人が、ポートランドの家畜置場にある、唯一の汚い建物に詰め込まれ、わらを詰めた麻袋の上で寝た。カリフォルニア州ではサンタアニタ、タンフォロンといった、競馬場の厩舎の中の馬房に押し込められた。サンタアニタの集結センターは、結局八千五百人の日系アメリカ人の住居にあてられたが、馬の引っ越しと、最初の日系アメリカ人の到着との間には、四日しかなかった。
そこの唯一の入浴設備は、馬用のシャワーであり、厩舎の悪臭がいつまでも漂っていた。ほかの疎開者たちも、はじめ各地の馬小屋や牛舎に入れられた。ワシントン州のピュヤラップ集結センター(キャンプ・ハーモニーと呼ばれた)では、豚の檻に入れられた。
◆人間扱いされなかった日本兵
アメリカのほとんどの白人が、日本人や日系人を蔑視していたから、アメリカ国内でも自分たちと同じ人間として見ていなかったのだ。同様に戦場において、日本人兵士を、人間だとは見ていなかった。
チャールズ・リンドバーグは、一九二七年に単機を駆って、はじめて大西洋を横断したことで、アメリカの国民的英雄となった。
リンドバーグは、第二次世界大戦に当たって、志願して、太平洋戦線で大佐として戦ったが、克明な日記を残している。
「軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。今こそ、日本兵を殺すチャンスだと、その捕虜は軍曹の前に、引き立てられた。
『しかし、俺はこいつを殺せないよ! やつは捕虜なんだ。無抵抗だ』
『ちぇつ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ』
偵察隊の一人が、日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に腕が巻きつき、喉元が一方の耳元から他方の耳元まで、切り裂かれたのだった。
このやり方は、話をしてくれた将軍の、全面的な是認を受けていた。私がそのやり方に反対すると、軽蔑と哀れみの態度で接した。
『やつらを扱うたった一つの方法さ』
談はたまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。『捕虜にしたければ、いくらでも捕虜にすることが出来る』と、将校の一人が答えた。『ところが、わが方の連中は、捕虜を取りたがらないのだ』
『二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのは、たった百か、二百だった。残りの連中には、ちょっとした出来事があった。もし、戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう』
『両手を挙げて出て来たのに、撃ち殺されたのではね』と、別の将校が調子を合わせる」(一九四四年六月二十六日)
「わが将兵の態度に、強い衝撃を覚えた。敵兵の死や勇気に対しても、また、一般的な生活の品位に対しても、敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。日本兵の死体から略奪したり、略奪の最中に、死者を『野郎』呼ばわりしたりすることも、意に介さぬ。ある議論の最中に私は意見を述べた。『日本兵が何かをしでかしそうと、我々がもし拷問をもって彼らを死に至らしめれば、我々は得るところが何一つ無いし、文明の代表者と主張することさえできない』と。
『ま、なかには、やつらの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし大抵は、まずやつらを殺してから、それをやっていますね』と、将校の二人が言い訳がましく言った」(六月二十八日)
「わが軍の将兵は、日本軍の捕虜や、投降者を射殺することしか、念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が、大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだというが、南太平洋における戦争をこの眼で見れば見るほど、われわれには、文明人であると主張する理由が、いよいよ無くなるように思える」(七月十五日)
「心底で望んだとしても、敢えて投降しようとしない。両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうことは、火を見るよりも明らかなのだから
(七月二十一日)
以上『孤高の鷲―リンドバーグ第二次大戦参戦記』学研M文庫
アメリカの従軍記者は、一九四六(昭和二十一)年の『アトランティック・マンスリー』誌に、太平洋戦線で「われわれは捕虜を見境なく撃ち殺し、野戦病院を攻撃し、救命ボートに機銃掃射を加え、民間人を殺害した。日本兵の頭蓋骨を煮て、置き物や、骨からペーパーナイフをつくった」(エドガー・ジョーンズ)と、寄稿している。
アメリカの人気作家のウィリアム・マンチェスターも、著書『回想 太平洋戦争』(コンパニオン出版)のなかで、「投降した日本兵は無防備だったが、一列に並ばせて、軽機関銃で掃射して、一人のこらず射殺した」と、述べている。
先のダワー教授は著書のなかで、「捕えた日本兵を一人放ち、狂ったように駆け出して逃げるところを、銃の標的として楽しんだり、沖縄で恐れおののく老女を撃ち殺して、『みじめな生活から、自由にしてやった』と、自慢した」と書いている。イギリスの歴史作家のマックス・ヘイスティングは、沖縄におけるアメリカ兵による残虐行為を、つぎのように描いている。
「一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。とくに、沖縄戦がそうだった。(アメリカ軍兵士の)クリス・ドナーは、こう記録している。
『地面に十五歳か、十六歳と思われる、美しい少女の死体が横たわっていた。全裸でうつぶせになって、両腕を大きく拡げていたが、やはり両脚を開いていて、膝から曲げてあがっていた。
仰向けると、少女の左乳房を銃弾が貫いていたが、何回にもわたって強姦されていた。日本兵の仕業であるはずがなかった。』
しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、丘の上から、敵によって狙撃されて倒れた。その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。
兵たちが口々に、『あのビッチ(魔女)を撃て! ジャップ・ウーマンを殺せ!』と、叫んだ。
兵が一斉に射撃した。女は倒れたが、渾身の力を振り絞って立ち上がると、手放した赤児のほうへ、わが子の名を叫びつつ、よろめきながら進んだ。
兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった」(『ネメシス 日本との戦い 一九四四ー四五』、ハーパース・プレス社、ロンドン)
「ネメシス」は、ギリシャ神話のなかに登場する、復讐、あるいは天罰を降す女神である。もし日本兵がこのような残虐行為を働いたならば、「皇軍」の名を汚すものとして、厳しく処罰された。日本は長い歴史を通じて、これほど酷い人種差別を行ったことも、都市ごと大量虐殺を行うこともなかったし、奴隷制度も存在しなかった。
このような証言は、この他にもいくらでもある。日本人は先の対戦中、アメリカ人を「米鬼」と呼んだが、まさに鬼だった。戦時中の日本国内で「鬼畜米英」という言葉が日常的に使われ、東條英機が戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」と説いた理由も、このような戦場の現実を知れば理解できる。
どうして、このような残虐行為を行った側が、「人道に対する罪」で、極東国際軍事裁判で日本を裁くことができるのか。
文/ケント・ギルバート
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