江草乗の「大人の物欲写真日記」

江草乗のプライベートな日常日記です。

芙蓉部隊

 この話ははじめて知りました。
 もっと世間に広めて欲しいですね。
 こんな立派な指揮官がいたということを、より多くの方に知ってもらいたい。

  芙蓉部隊

特攻せず 夜襲部隊「芙蓉」(1)指揮官の信念@S[アットエス] by 静岡新聞 8月2日(日)16時0分配信
特攻作戦を拒否し、夜間攻撃を続けた芙蓉部隊
 死を覚悟し、戦闘機で敵艦隊に体当たりする「神風特別攻撃」―。いわゆる「特攻」。太平洋戦争末期、戦況悪化に伴い、日本海連合艦隊司令部は特攻主体の作戦を決定し、米軍の沖縄上陸に備えた。その中で、特攻を拒否し、「正攻法」を訴えた航空部隊があった。焼津市の藤枝海軍航空基地(現・航空自衛隊静浜基地)で誕生した「芙蓉(ふよう)部隊」。指揮官の美濃部正少佐(故人)は「夜間攻撃の合理性」を説き、出撃を繰り返した。美濃部元少佐が晩年に書き上げた自分史を元に、関係者に話を聞いた。
 「僕らは分かっていたんだ」。突き刺さるような日が降り注ぐ5月中旬。航空自衛隊静浜基地近くの飲食店で男性はゆっくりと話し始めた。
 芙蓉部隊で戦闘機の整備に当たった槙田崇宏さん(89)=静岡市清水区=。幾多の戦火を乗り越え、戦後は清水市(現静岡市)の市議も務めた。現在は戦友会「芙蓉会」の4代目会長だ。
 何が分かっていたのか―。「特攻が米軍の艦隊に届かないってことだよ。その前に撃ち落とされる。こういう考えの人は少なからずいたんだ」
 指揮官の美濃部少佐はその思いを、命懸けで上官にぶつけた。
 出席者約80人の末席で、美濃部少佐は怒りをこらえきれなかった。1945年2月の木更津基地(千葉県)。沖縄戦に向けた指揮官の作戦会議で、司令部は性能が劣る練習機まで駆り出す「全軍特攻」の方針を打ち出した。
 特攻機が高性能の米軍機にかなわないことは目に見えていた。しかし、異議を唱える者は誰もいない。「本当に勝てると思っているのか」。心の中で疑問はどんどん膨らむ。「少年兵を道連れにはできない。隊員を裏切れない」。ついに立ち上がり、声を上げた。
 「十重二十重の防御網を突破するのは不可能。特攻の掛け声ばかりでは勝てません」。上官に糾弾されたが、それも遮った。「今の若い搭乗員に死を恐れる者はいません。ただ、国のために死ぬには、それだけの目的と意義がいります」。最前線で戦ってきた自負がある。「精神力ばかりの空念仏では、心から勇んで立つことはできません。同じ死ぬならば、勝算のある手段を講じていただきたい」
 当時の軍上官の命令は天皇の命令。背くことは「抗命(こうめい)罪」に問われ極刑に処される。それも覚悟して芙蓉部隊の能力の高さ、夜間攻撃の有効性を訴えた。
 「若者たちの必死の訓練を見ていただきたい」。司令部は後日、芙蓉部隊を特攻作戦から除外する異例の判断を下した。
 「反骨の指揮官」「特攻精神で戦い抜いた」―。戦後、さまざまな雑誌が、特攻を拒否し、正攻法とされていた夜間攻撃を続けた芙蓉(ふよう)部隊で信念を貫いた指揮官・美濃部正少佐(故人)を取り上げた。記事にはそんな見出しが躍る。
 5月中旬の焼津市。芙蓉部隊元整備兵の槙田崇宏さん(89)=静岡市清水区=は保管していた記事のコピーを広げ、話に熱を込めた。
 何度も口にする「誇り」の言葉。芙蓉部隊の功績に話は及ぶ。「(日本海連合艦隊の)司令部は戦時中、芙蓉部隊の数多くの戦果を公にしなかった。夜間攻撃ではなく、『全軍特攻』とした作戦が過ちだったと、自分たちで公言するようなものだから
 芙蓉部隊は三つの飛行部隊が再編成されて1945年1月に誕生した。総勢六百数十人が所属し、戦闘機約150機を配備。藤枝海軍航空基地(焼津市、現・航空自衛隊静浜基地)から仰ぐ富士山の異称「芙蓉峰」から名付けられた。
 4月に始まった沖縄戦では約半数が前線の鹿屋、岩川両基地(鹿児島県)に展開。終戦までに計81回延べ786機が出撃し、難度の高い夜間の攻撃を続けて米軍に恐れられた。
 しかし、当時、特攻を拒否した芙蓉部隊に対する批判は少なからずあったという。
 「『お前らの隊はひきょうだ』と言われたこともある」。それまで穏やかだった槙田さんの表情はたちまち険しくなった。
 臆病者とののしられ、別の部隊から日本刀を突き付けられた隊員もいる。「特攻部隊ではないから」と別の部隊よりも質素な食事が出されたこともある。悔しさから「特攻に加えてほしい」と泣きながら訴えた隊員さえもいた、と振り返る。
 「それでもね、うちの部隊は本当に多くの戦果を挙げたんだ。周囲から批判的な声はあったが、陰では理解を示し、応援してくれる別部隊の指揮官もいた」
 戦果と同様、どの部隊よりも多くの犠牲者を出したとも思っている。だからこそ、仲間を、指揮官を、部隊を誇りに感じている。
 「部下の命、貴重な戦闘機を大切にし、常に日本のことを考えた。『全軍特攻』の世相の中、命を懸けて夜間攻撃を選択した美濃部さんは決して間違っていない」

 ピンと伸びた背筋、太い指、厚く大きな手―。ゼロ戦を自由自在に操った若かりしころの面影がどこか残っている。5月中旬の島田市。「芙蓉(ふよう)部隊」の元パイロット渋谷一男さん(89)は日の丸を掲げた2階の自室へと招いてくれた。
 「自分で言うのもあれだけど、芙蓉部隊は精鋭の部隊。『最後まで』『勝つまでは』と戦い抜いた」。目も耳も当時の記憶も、はっきりとしている。
 芙蓉部隊は太平洋戦争末期の沖縄戦では、指揮官・美濃部正少佐(故人)の命懸けの訴えによって「全軍特攻」の作戦から除外されたいきさつがあり、「常に戦果が求められた」。だからこそ「特に訓練が厳しかった」という。
 薄暮・夜間の飛行は特に難度が高く、出撃するパイロットは通常で年間400時間の訓練が必要とされた。しかし、当時、1人が練習に使用できる燃料は月に15時間分だけ。夜間攻撃の歴史も浅く、日本海軍でも訓練方法が確立されていなかった。
 「(美濃部少佐は)さまざまな創意工夫を重ね、短期間で優秀なパイロットを育てたんだ」

◇    ◇
 1945年2月に木更津基地(千葉県)で開かれた作戦会議。日本海連合艦隊司令部は沖縄戦で「全軍特攻」を決定した理由として、燃料不足とそれに伴う搭乗員の技能不足を挙げた。
 美濃部少佐は当時の状況を、自分史にこうつづる―。
 異を唱え、声を荒らげた。「指導、訓練の創意工夫が足りないのではないですか。私の部隊は飛行時間200時間の搭乗員でも夜間攻撃が可能です」
 短絡的に「特攻」を選んだ司令部への怒りの訴えは続く。「全員が死を覚悟で教育し、教育されれば、敵戦闘機群にあえなく落とされるようなことなく、敵に肉薄して死出の旅路を飾れます」。より合理的と考えた夜間攻撃の必要性を力説した。
◇    ◇
 「部下を出撃させることに、大きな責任を感じていたと思う。言わなくても顔を見れば分かった。厳しい訓練もそのためだったんだ」。渋谷さんは指揮官の思いをこう推察し、訓練時間を通常の3分の1まで短縮したというさまざまな方策について話を進めた。
 「猫日課」と称した昼夜逆転の生活で夜目の強化を図った。燃料不足を補うために、米軍基地の立体模型を作って夜間の進入経路を学び、図上訓練を繰り返した。座学も重視し、航法や夜間における艦艇の見え方、戦術、飛行機の構造、気象データなどを幅広く学んだ。
 「命のことは考えたことはない。普段から立派に戦うこと、技術を磨くことだけを考えた」。死んだ戦友も数多くいる。そんな中で「余計なことは考えられなかった」。厳しい訓練だけが、国のためになると信じていた。
 「当時はそれが当たり前だった。そんな時代だったからこそ、美濃部さんの魂は心の中に残っている。仲間たちが私の財産」
「自分の整備した戦闘機に乗って帰ってこない隊員もいた。だから、疲れたなんて言ってられない」。太平洋戦争末期の沖縄戦。仲間の命を預かったあの時代を、「芙蓉(ふよう)部隊」の元整備兵・槙田崇宏さん(89)=静岡市清水区=は振り返る。
 搭乗員が創意工夫の訓練を重ねてその飛行技術を磨く中、整備兵も高度な整備技術を身に付け、不眠不休の作業で戦闘機の稼働率を飛躍的に向上させた。
 「寝る間も惜しんで働いた。出撃すると、エンジンのカバーをかぶって仮眠して、帰ってくると、すぐに点検してね」。夜間は出撃する戦闘機を見守り、昼間は修理や点検が待っている。沖縄戦が始まった1945年4月から終戦までの4カ月半、兵舎で寝たのは台風の時だけ。ゆっくりと体の汚れを落とす時間もなかった。
 当時は戦闘機が故障しても簡単に代わりの部品は手に入らない。壊れた戦闘機から同じ部品を取ってきても、すぐには適合しなかった。「ヤスリでボルトの穴を広げて使った。『整備兵も死ぬまで頑張るぞ』ってね」
 「JUDY」。米軍は、芙蓉部隊がゼロ戦とともに活用した2人乗り爆撃機「彗星(すいせい)」をこう呼んだ。「特攻よりもしぶとく、想定のつかない攻撃で精神的にも追い詰められた」。終戦後の雑誌インタビューで多くの元米兵が彗星による夜間攻撃について話した。
 当時では珍しい最新技術の「水冷エンジン」を搭載。高性能を誇ったが、整備が難しいため各部隊が放置し、稼働率は極めて低かった。
 そこに目を付けたのが芙蓉部隊の美濃部正少佐だった。全国に眠っていた彗星や機材をかき集め、隊員を愛知県の製造元に送って整備方法を習得させた。特攻で各部隊の戦力が枯渇する中、稼働率を当時としては驚異的だったという80〜90%にまで跳ね上げた。
 美濃部少佐は晩年に書き上げた自分史にその努力を記している。「母のごとく、妻のごとく世話をしてくれた整備兵。戦闘機の裏に温かい祈りがあった。激しい航空戦も、この整備兵の支援なくしては不可能だった」
 「美濃部さんは特攻自体を完全否定していたわけではないんですよ。代案がなければ、『やむなし』と思っていた」。芙蓉(ふよう)部隊の元戦闘機搭乗員渋谷一男さん(89)=島田市=は終戦直前、最初で最後の“決断”を下した美濃部正少佐(故人)の思いを推し量った。
 戦況は悪化し、米軍の志布志湾上陸も迫っていた。芙蓉部隊が展開する岩川基地(鹿児島県)から志布志湾は目と鼻の先。「戦闘機が離陸すると、すぐ下が志布志湾。基地をカムフラージュしてもすぐに基地の位置がばれて攻撃を受ける」
 夜間攻撃ができず、基地が発見されれば、死を待つだけ。「だから美濃部さんは特攻を決めた」
 自身が語ることで多くの人に知ってほしいと思っている。指揮官がやみくもに特攻を拒否したわけではないことを。そして、「特攻作戦」を非難した一方、特攻で散った搭乗員を戦友として常に敬っていたことを―。

◇    ◇
 米軍の志布志湾上陸がささやかれ始めた終戦直前の岩川基地。「お前は長男か?次男か?」。美濃部少佐は整備兵に問い掛けた。「次男です」。美濃部少佐は兵の目を真っすぐに見て言った。
 「最後まで戦ってくれよ。米軍上陸の際は戦闘機は全機突入。地上の隊員も戦闘機から外した機関銃や爆弾を使って戦うぞ」
 その整備兵は、現在の戦友会「芙蓉会」会長の槙田崇宏さん(89)=静岡市清水区=。
 美濃部少佐は長男の隊員は後方基地の藤枝基地に帰し、残された隊員による最後の特攻を決断した。「全員死ぬつもりで最後の突撃だ」
 これまで銃をほとんど撃ったことがない槙田さんも覚悟を決めた。しかし、間もなく終戦を迎え、芙蓉部隊が特攻することはなかった。

◇    ◇
 芙蓉部隊が誕生した航空自衛隊静浜基地焼津市、旧藤枝海軍航空基地)。入り口から少し歩いた場所に、芙蓉部隊の慰霊碑が建つ。犠牲になった隊員は100人余。5月の航空祭の前日に毎年、芙蓉会が主催して慰霊祭を開き、元隊員や地域住民が哀悼の意をささげる。
 今年出席した元隊員は槙田さんと渋谷さんの2人だけ。かつては100人以上が集まったが、存命の元隊員も少なくなった。
 「生きていても高齢になって、出席できる人はほとんどいない」。少し寂しそうに語る槙田さんは「それでもね」と続ける。「慰霊祭は日本のために戦った人たちを、仲間や地域が手厚くまつる場。その趣旨にはかなっていると思う」
 卒寿を控えた元隊員2人は慰霊碑を前に誓う。「部下の命を無駄にしなかった美濃部さんは正しかった。生きている今、それを痛感する。残りの人生を精いっぱい生き、感謝の気持ちで過ごしたい」
 航空自衛隊操縦士の初任教育を担う静浜基地には、芙蓉部隊の名が第11飛行教育団第2飛行教育隊のコールサイン「FUYO」として今も残る。若い操縦士に命の尊さを伝えるために―。
 「『いたずらぼうず』がそのまま大人になって。自分の方法で国や部下を守り、戦後の日本の復興に取り組み、余生は好きなように過ごした」
 梅雨の中休みで久々に太陽が姿を見せた6月13日の埼玉県狭山市。芙蓉(ふよう)部隊の指揮官だった美濃部正少佐(故人)の三女・竹内聡子さん(63)は自身が経営する獣医科医院を兼ねた自宅で、1997年に亡くなった父親をこう評した。
 はきはきとした物言いは、想像していた美濃部少佐の雰囲気とぴたりと当てはまる。「父が死んだとはあまり思っていない。そこら辺にいるんじゃないかって」。この日は命日の翌日。仏壇のある和室を見回しながら、ユーモアを交えて語る。
 美濃部少佐は亡くなる2年半前、79歳の時、戦時中に書いた日記を元に、自分史執筆に取り掛かった。説明書を見ながらワープロのキーボードをたたく日々。その姿は、終戦後に進んだ航空自衛隊で米軍と折衝する際、「日本が少しでも有利になるように」と擦り切れるように英和辞典を引いていたころと「重なっていた」(竹内さん)。
 「優秀な戦友が落とさなくてもいい命を失ってしまった。申し訳ない」。誰に語り掛けるでもない。独りで涙を流しながら、命を削りながら自身の人生をつづった。
◇    ◇
 命の大切さは誰よりも感じていた。1945年8月の岩川基地(鹿児島県)。敗戦を受け入れられず、「まだ戦える」と声を上げる部隊。自ら命を絶つ戦友―。「早まったことをするな。3年待って日本の行方を見定めよ。鳥は悲しいときも、うれしいときも古巣に帰る。とにかく父母の元に帰れ」。残っている飛行機を使って一刻も早く故郷に帰るよう隊員に指示した。
 「ああいう愚かな作戦をなぜ編み出したのか、私は今もそれを考え続けている」。美濃部少佐は晩年になってもこの答えが見つからない。そして、日本海連合艦隊司令部が沖縄戦の作戦に決めた「特攻」を「戦場を知らぬ参謀の殺人戦法」と非難した。美化されて描かれる特攻について「感情的な部分だけで語ってはいけない」とも思っていた。
 特攻作戦の方針が示された際、「私は若い部下の搭乗員に、特攻作戦の命令を下すことはできなかった。それを下そうとも思わなかった」。美濃部少佐の信念はこの言葉に凝縮される。

◇    ◇

 「父の遺言は一つなんです」。それは「二度とあのばかな戦争を繰り返してはいけない」ということ。
 美濃部少佐は日本の行く末を憂いていた。多くの人が願う平和や不戦。だが「言葉だけで、具体性が全くない。覚悟や理念、実行力が伴うべきだ」。戦時中に司令部から命じられた「撃滅せよ、必勝を期す」との精神論にも重ね合わせる。
 額の汗を拭いながら、父親が伝えたかったことを竹内さんは代弁する。
 「太平洋戦争は日本が自国中心の国家体制を最善と考えた、独善性の過ちから起きた。独善的に願望を唱えるだけでは駄目だ。同じ過ちを次の世代に繰り返さないためにできることがある」

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