江草乗の「大人の物欲写真日記」

江草乗のプライベートな日常日記です。

芥川賞を悲しむ

 いつから芥川賞とはこんな陳腐なものになってしまったのか。少なくともそれが美しい日本語で書かれた文学の発展に寄与することはとうていあり得ないという感を強くしたのが、今回の「乳と卵」である。乳と卵単行本ではなくて、文藝春秋に掲載されていた分を一気に読んだ。選考委員たちの選評も読んだが、私はこういう作家たちの選評というのは石原慎太郎以外はみんな八百長だと思ってるので無視することにしている。
 作家には作家を選ぶ資格はない。彼らがそこにたまたまそうしているのは、他の作家のおかげではなく読者のおかげであり、その作品がすぐれた小説であるかどうかを決定するのは作家ではなくて読者であると私は思う。作家という職業はすぐれた書き手ではあっても、決してすぐれた読み手ではないと言うことが明らかだからだ。
 「乳と卵」の文章のどこが大阪弁なのか。大阪にずっと暮らす私は、こんな崩れた下品な大阪弁を正調の大阪弁であると言って欲しくないし、こんな似非大阪弁をありがたがる選考委員たちの不明を悲しむ。大阪弁の格調高い会話文を知りたかったら、たとえば昔の船場のコトバを見事に再現した「樟樹」なんかを読んでみればいい。
 野坂昭如の初期の饒舌体の文章が果たして読みやすいか?それは否である。句点をほとんど用いず、読点ばかりで延々と続くその独特の文体がその作家のスタイルだという前に、国語教師の私はその文章に大きくバツをつける。「もっとわかりやすくちゃんと書け!」と。
 意味不明の悪文をわざわざ「独特の文体だ!」とありがたがってる馬鹿の群れは、裸の王様をほめている佞臣たちと同じである。私は「王様はハダカだ」と叫んだ子どものように、「乳と卵はただの言語実験のキワモノだ」と叫びたい。金原ひとみの「蛇にピアス」同様に、こんなものに「芥川賞」を与えることで、芥川賞そのものがただのキワモノに与えられる一種の蔑称となることを悲しむのだ。
 芥川龍之介の作品は、日本語の美しい文章としてもきわめてすぐれたものであった。それはまぎれもない事実だ。それに比べて「乳と卵」の文章のひどさはなんだ。どこが樋口一葉の影響だ。樋口一葉があの世で怒ってるぜ。
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