放蕩無頼にあこがれて
高校生の頃、放蕩無頼という生き方にあこがれた。坂口安吾や太宰治を読み、その世界に耽溺しながらそうした破天荒な生き方をしたいと密かに願っていたのである。文学部というおよそ非生産的な世界に進学したことでその方面に一歩近づいたかに見えたが、卒業して公務員のはしくれとなったときにもはや自分は放蕩無頼である資格を失ったのかも知れない。放蕩無頼というのと、自分が日頃批判しているニートというのはどう違うのだろうか。放蕩無頼のままで生きていけるような職業はそもそもあるのだろうか。作家とかならそれは可能なのだろうか。
大学在学中にそのまま作家になれたのならば、放蕩無頼という生き方が可能だったのかも知れないし、あるいは大学生の時に株のトレーダーとして自立して、そのまま就職しないで株だけで喰っていけるならそれもまた放蕩無頼という人生を可能にしたのかも知れない。残念ながら私は普通の社会人として就職して、そして家庭を持って二児の父でもあり、老いた両親を扶養家族にしているわけで、もはや周囲の状況が放蕩無頼なんて生き方を許さないのだが。老人になって状況が一変したとして、そのときは放蕩無頼ではなくて「不良老人」と呼ばれて笑われるのだろうなあ。
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