サヨナラのその後
男と女、過去の恋愛を引きずるのはどっちだろう。
大学の3回生のころに、ひとつ年上の女性とつきあっていた。彼女は私よりも一年早く社会人になることになる。彼女なりの将来設計を考えてたみたいで、「あなたが大学院に進学したら私の家から通えばいい」と何度か私に言った。彼女の家は大阪市内の持ち家で、隣には彼女の家の持ち物である借家もあり、父親を早くに亡くしたということだったが、美人の姉と、母との三人家族だった。
彼女は実に献身的に尽くしてくれた。合宿に出かけるときは大阪駅まで見送ってくれて、お弁当を差し入れしてくれた。オレが後輩を連れて行くときは、後輩の分と二人分作ってくれたのである。それはかなりありがたかった。「先輩、このお弁当めっちゃおいしいですね。」とネズミ男によく似た後輩は語った。
私はヒモになるみたいで、彼女の家に入るというその生き方をよしとしなかった。今ならなんて愚か者だったんだと思う。自分のことを思ってくれる資産家の、父親を亡くした娘とくりゃあ、その家をまるごと乗っ取れるじゃないか(笑)しかし、当時の自分は妙にこだわりの多い性格だった。貧乏人のくせに、女の世話になってたまるかと思っていた。そういうわけで、大学の四回生になって新しい恋人ができたこともあり、彼女とは別れてしまう。それから長いこと音信不通だった。というか、彼女にしてみても自分を一方的に捨てた男なんかきっと顔もみたくないはずだ。
最後に逢ってから7年くらい経ってからだろうか。大文字の送り火を見るために京都から京阪電車で帰るとき、昔の恋人は同じ車両におそらくは彼氏と一緒にいたのだろうか、乗っていた。気がついたとき、距離は2メートルもなかった。私はそのことに気づいて身体が凍り付いた。もしも声をかけられたら自分の連れにどう説明したらいいのかと焦った。しかしそれは杞憂だった。だって、彼女は全く私なんか無視していたのだから。確かに自分の顔を見ているはずのその視線には、全く何の変化もなかった。
自分に気がつかないはずはない。でも、彼女は全くの無表情だった。いや、彼女の顔には表情そのものがなかった。目の前にあるのは女の顔の形をした虚無でしかなかった。
自分の心の中には長い間彼女を捨てたという罪悪感があった。しかし、彼女は私という男の存在そのものを自分の記憶から消去したに違いなかった。
今、私は通勤の時に毎日、大阪市内の彼女の家の横を通り過ぎる。これもまた不思議な因縁である。ただ、一度もそこですれ違ったことはない。まだその家の主がそのままであるかどうかも確かめたことはない。