江草乗の「大人の物欲写真日記」

江草乗のプライベートな日常日記です。

掛布雅之選手の思い出

exajoe2010-03-14

 元阪神タイガース、掛布選手のサイン入りのモナビーのボトルを以前にいただいたことがある。(幸いまだ中味の入った写真を保存していたので貼り付けておく)
 このモナビーはタイガースの公式ドリンクになるかも知れないというウワサを聞いた。
 掛布雅之選手といえば、私にとってまぎれもなく「ミスタータイガース」そのものだった。私にとってミスタータイガースと呼べるのは彼以降誰もいない。掛布選手がタイガースに入団した年、1974年というと私は中学2年生である。その頃、近鉄ファンのN森くんという友人が居たが、彼は私にこう言った。「掛布がいてるいまが優勝のチャンスや!」
 新人の頃から彼は何か違っていたのだ。
 彼が入団した年、同じサードのポジションを争う新人に佐野仙好がいた。佐野はドラフト1位での入団である。しかし、テスト生でドラフト6位だった掛布はその争いに勝利してみごとにサードの定位置を確保するのだ。佐野は外野手に転向することとなった。高校を出たばかりのルーキーに与えられたのが8番サードという打順・定位置だった。8番から彼は少しずつ打順を上げていったのだ。
 高校生の頃、あこがれの女の子が「阪神に今、掛布ってすごい選手いてるんでしょ」と阪神ファンの私に話しかけてくれたこともなぜか覚えている。どう見ても美男とはほど遠い(掛布さん、失礼!)彼が、そうして女の子に関心を持たれるくらいになるということが意外といえば意外だった。ましてやあこがれの女の子だっただけに。
 私が大学に入学した1979年、掛布は48本のホームランを打って初の本塁打王になる。ホームランと言えば王貞治という少年時代を送った私にとって、それはとても嬉しいことだった。その頃の阪神のクリーンアップを打っていたのは、ラインバック、掛布、ブリーデンだったかな。みんな思い出深い選手たちである。
 阪神が日本一になった1985年、もちろん4番を打っていたのは掛布である。長い間掛布は阪神タイガースの不動の4番打者として活躍し続けたのである。1981〜85の5年間、彼は130試合フル出場している。86年の4月に中日の斉藤学投手から手首に死球を受けて不振に陥ったが、もしもこの死球がなかったらこのたぐいまれなる天才打者はその後も阪神の4番として活躍し続けたに違いない。1988年に引退したが、33歳での引退は若すぎると誰もが思ったはずだ。
 左打者の彼にとって浜風の強い甲子園球場はライト側の打球が風に押し戻されるので不利だった。しかし、後には流し打ちでレフトスタンドに放り込むスタイルを確立できたことで風を味方につけてホームランを量産するようになる。しかし手首を痛めたことでそのバッティングスタイルゆえに選手寿命が縮まったという悲劇もあった。まぎれもなく私の記憶の中では彼はミスタータイガースであり、阪神の日本人選手としては最高の打者であった。



 引退後の彼は阪神のコーチや監督になることはなかった。一説には彼の結婚式がホテル阪神ではなかったことでオーナーが怒ったからという話だが、そんなものはただのネタだろう。
 
 掛布選手のサイン入りじゃないけど、このモナビーは私の友人が扱っているので興味がある方はこちらを訪問してください。アサイーフルーツについては以下の本が詳しく書いています。

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