知的生活するということ
活字を読むのが好きだ。
それは新聞でも、小説でも、ネット上でのテキストでも。
面白い考え方に触れるのが好きだ。きっと自分は知的好奇心を満たすという行為が限りなく楽しいのだと思う。「知」は快楽なのである。そんな快楽であるべき「知」が、なぜ多くの子ども達にとって苦痛になっているのだろうか。それは大切な「知」が、時に受験のための道具としてしか用いてもらえないからなのであろうか。
社会科の選択科目が地理なのか世界史なのか、「受験の有利さ」「覚えることの少なさ」で決められてしまう。好きな科目という理由はそこにはない。文科系の理科選択はおきまりの「生物」なぜなんだ?
私は共通一次世代の一期生*1として生まれた。理科も社会も二科目必要だった。文学部でありながら「物理」「化学」を選択したし、数学はもっとも点数の稼げる科目であった。(ちなみに国語は全科目中もっとも点数が低かった)。
物理で力学を習った頃、体罰教師として名高い人に教わったのだが、実際私もかなりの体罰を受けた。テストで点数が低いと頭を樫の棒で叩くのだ。今の時代なら大変な事件になっただろう。わずかばかりの公式を理解することですべての問題が面白いように解けた。こんな楽勝科目をなぜ文系の連中は選択しないのかと不思議だった。「どうしてそんなに膨大なことを覚えないといけない生物なんか取るんだ?」と。
世の中には理解するよりも、馬鹿みたいに暗記する方が楽という人種が大勢居ることを後に知った。
高校に入ったばかりの頃は英語が苦手だった。いや、中学ではできていたのだが、高校ではものすごく進度が速く、予習の習慣などなかったためにたちまち落ちこぼれたのだ。語学は掛ける時間が大きくものを言う。単語をたくさん覚えればいいのか・・・と思ったが、当時お世話になった古典の教師(のちに彼は私に「国語教師になれと薦めた」)は、「英文をたくさん読め。小説も英語で読め」とアドバイスしてくれた。私は授業を受ける前に教科書を全部理解してから受けようと思い、50分の授業に対して2時間くらい予習するようになった。一年後、英語は得意科目になっていた。単語集を覚えるという勉強法などしなかったが、「試験に出る英単語」を開いたとき、知ってる単語ばかりだったから捨てた。
受験勉強の日々は自分にとっていったい何だったんだろう。たまたま努力のかいがあって、偏差値が異常に高いとされている大学に自分は入ることが出来た。その後ろくに勉強しなかったので大変ふまじめな人間になってしまったが、その大学を出てるというだけで優秀な人間と誤解してもらえて、世間を渡っていくのにかなり都合がいい。
おっと、こんなことはまとめてしっかり書くべきことだ。少なくともここで垂れ流す内容じゃない。