文明としての教育
昭和20年秋の満州といえば、軍隊もなければ警察もなく、ソ連軍が支配する無政府状態だったはずだが、そこでもなぜか学校が存続していたとうことが冒頭に出てくる。本職の教師がいなくなっても、満鉄の技師や大学の教員だった人などがそこで教師となって子どもたちを教えていたという。学校の窓も床も天井も、木材という木材は燃料のために中国人に奪い去られて、そこには煉瓦の壁しか残っていない。黒板もない。そんな学校に子どもたちは通っていたというのだ。教育の原点とはそんなところにあるのかも知れない。
- 作者: 山崎正和
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私が教育実習の時に習った先生は、教育の意味をいつも実習ノートに書いてくれた。その中にたとえば「教育とは文化遺産の継承」というくだりがあった。その知識が生活に直接必要なものではなくても、人類がそこまで到達したということを理解するために、数学や理科を学ぶのだと。
また、学問には「手段としての学習」と「目的のための学習」とがある。
自分たちを庇護するはずの国家を失った満州の日本人たちにとって、学校で学ぶ知識が何かに役立つということを誰も考えなかったはずだ。しかしそこには居留民が作った中学校があり、三角関数や哲学を生徒たちは学んでいたのである。これは驚くべきことだ。
大学受験のための勉強、つまり「手段としての学問」すら満足に取り組もうとしない生徒たちが、どうして「目的としての学問」という高尚なレベルに到達することができるだろうか。どうして古典文学を理解したり、高度な哲学書を読もうと思うだろうか。
単純な宿題すらまじめに取り組もうとせず、友人の宿題を丸写ししたりする子どもたちを見ると、そんな気分になってしまうのである。
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