江草乗の「大人の物欲写真日記」

江草乗のプライベートな日常日記です。

意味のない宿題

exajoe2013-08-24

 画像はただのイメージです。今回の記事とは無関係です。



 単語集にある単語を抜き出して、発音と意味を確認のために記入し、それを8回ずつ書写するという作業にどんな意味があるだろうか。その労役を通じて、果たして英語学習になったと言えるのだろうか。否である。こんなことを中学1年生とかにさせるならまだしも、高校生のやるようなことではない。
 私ははっきり言いたいのである。
 日本の英語教育をダメにしてるのは、こういうものを「宿題」として出していて平気な日本中の公立高校の英語教師の存在である。やれ小学校から英語を教えろとか、もっと会話重視にしろとかいろんなことが言われるが、現場がこんなことをしてる以上、文部科学省がどんな方針を立てても無駄である。
 なぜ「作業」ではなくて「思考」をさせないのか。

 こんなものは「学習」ではなくてただの「作業」なのである。手の運動に過ぎないのだ。頭が疲れるのではなくて手が疲れるだけである。せめて書写をさせるならば、単語ではなくてもっとまとまった文章を、ていねいにきれいな文字で清書するくらいのことをさせた方がいい。それを暗唱できるまで繰り返し読ませた方がいい。たとえばキング牧師の演説とかを。

 もちろん作業をさせる方が思考をさせるよりもラクチンだ。だって作業ならばどんなに能力の劣った生徒にでもできてしまう。しかし、思考というのは遙かに高度な行為である。すべての生徒が高度な思考に耐えうるわけではない。それもまた厳然たる事実である。

 私も古文や漢文で記入式のプリントの宿題を出すことはある。そこで意識させることは「音読」と「記憶(暗唱)」である。ただ、私の意図を全く理解せず、その宿題を作業のように雑な形で片付ける生徒が少なからず存在することもまた事実だ。宿題というのはその対象を通じて学ぶことに意味があるのであり、その宿題をやったというアリバイ作りのためにあるのではない。

 夏休みの宿題を今完成させようと必死になっている多くの日本中の児童生徒たちのうちで、いったい何割がその宿題を意味のある学習につなげているのだろうか。私はいつも思うのだ。どんな宿題もそれを活かすのは取り組む側の心構えである。どんなに教師によって工夫された宿題であっても、やる生徒の側がその工夫を台無しにしてしまうこともある。そして多くの「いくらやっても成績が上がらない」と嘆く生徒たちは、自分がやってる「作業」を「学習」と勘違いしていて、延々と時間を浪費してるのである。「いくらやっても」というが、作業はいくらやっても作業である。そんなものは学習ではない。

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