参観日の思い出
なんとなく、子どもの頃のことが書きたくなった。
小学生の頃、参観日にはいつも母は仕事を休んで来てくれた。同じ小学校に兄や妹の教室もそそくさと回ってきてるので、私は母が来ているかどうか教室の後ろばかり見ていた。母が来てるときに手を挙げて答えかったので、まだ母が来ていないときはわかった問題でも手を挙げずにいた。もしもそこで答えてしまったら、母が来たときに今度はまだ答えていない子が優先されて、自分は母の前で晴れ姿を見せられないと思ったからである。
私の母は昭和11年生まれ、私を産んだのは母が25歳の時、昭和36年である。だから小学生の頃は30代半ばと言うことになる。他の子のお母さんもみんな同じくらいの年齢だったはずだ。でも私は、いつも後ろの母親たちをを見回して、自分のおかあさんが一番きれいだと思っていた。よその子のおかあさんはみんなオバハンで、自分のおかあさんだけが美人だとそう信じていたし、今も私はそう思っている。当時の女優にたとえると若尾文子に似ていた。
中学校の時の担任の女教師がため息をつくように「どうして江草くんのお母さんはいつまでも若いんだろうね。秘訣を教えて欲しいわ」と言ったことを覚えている。その教師だって当時は30歳くらい、うちの母よりも若かったはずなんだが。
母はよその人の前では私の優等生ぶりを自慢することが多かった(汗)。物心ついたときから自分は学校のお勉強が得意だったし、塾には全く通わなかったけど教室で聞いてるだけで大丈夫だった。いや、聞く前にすでに自分はその多くの知識を知っていた。宿題はあまりまじめにやらなかった。たいてい宿題が出ると、授業中に解いてしまった。授業を受けながら、この問題が宿題になりそうだなと思うと先回りして解いてしまったりしていた。当時の小学校ではそれほど宿題も出なかったし、中学受験するような子もいなかった。家には母が買ってくれた子ども向けの古典文学や図鑑類があったし、貧しかったはずの家に本だけはたっぷりあった。欲しい本はたいてい買ってもらえた。
きっと教師から見れば私というのは扱いにくい子どもだっただろう。教室の小学生の中に一人だけまじってる大人のような存在だったからだ。でもサイズはまぎれもない子どもなんだが。そんな子どもが担任の先生に向かって同和行政や教育のことを非難する意見を言ったりしたのだから親や教師は大変だっただろう。あの頃の私はどうしようもなく生意気なクソガキだったのである。
私の両親は露天商をしていた。だから夏は日に焼けて黒くなるはずなのに、母は日焼け止めクリームとかで防御して少しでも色白のままでいられるようにと涙ぐましい努力をしていた。そういえば73歳の今は髪はもう真っ白のはずなのに、いつも染めているから白髪になってることが傍目にはわからない。平家物語の斎藤別当実盛みたいである。もちろん73歳なんかには見えない。50代くらいに見える。髪が薄くなってオッサンになった私がショックなのは、妻と一緒にいるときは親子と思われ、母と一緒にいるときは夫婦に間違われるということである。なんてことだ。
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